AI敗戦と大学法人化

AI敗戦と大学法人化

2025-05-22

わたしはこれまで、日本政府によるデジタル教育放棄については繰り返し批判してきましたが、20年以上も前から始まった大学の法人化策が、その始まりであったことを、新井紀子氏の反デジタル運動への批判も絡めながら明らかにしております。また、政治的には統一教会との関係もあり、問題は非常に複雑で根深い。眼前の時事問題にも一言。(アイキャッチ画像の背景画はMemeplexで作画)

1.西田発言と保守の偏向思考

ひめゆりの塔をめぐる西田参議院議員の無知に基づく誤謬発言が厳しい批判に晒されていましたが、「歴史の書き変え」だという西田発言の最大の問題点は、事実ではないことを、偏見に基づく思い込みで発言をしたことです。西田氏は、激しい批判に晒されて表面的には謝罪を口にしたものの、事実に基づかないご自分の思い込みを、あたかも事実であるかのように主張する姿勢は最後まで撤回しようとはしていません。西田氏の無知の頑迷さにこそ、西田氏の発言の最大の問題があると思います。

自民・西田氏、ひめゆり発言撤回 拒否一転「非常に不適切」
時事通信 編集局  2025年05月09

西田氏は自民党の保守派を代表する議員の一人ですが、保守派には、この種の無知の頑迷さに凝り固まった議員が多いように思います。杉田水脈氏もどのお一人ですね。

以下の解説にもあるように、沖縄は本土防衛のための捨て石にされた側面のあったことは事実です。
ひめゆり学徒隊の沖縄戦 ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館

戦後は国内最大の米軍基地が置かれ、今なお本土防衛の最前線基地としての位置づけにあることは周知の事実です。

また戦中、日本兵は祖国防衛のためにわが身を犠牲にして戦って命を落とされた方々が大半だと思いますが、中には、守るべき民間人を犠牲にしてわが身を守った兵士が、国内外で存在したことも事実です。

沖縄の米軍基地も、敗戦後、日本に駐留していた米軍が、民家をブルドーザーで大量に粉砕撤去して基地化したものです。その代表が、住宅地と接して世界一危険だと指摘され移転が計画されている普天間基地ですが、保守派の論客の中には、米軍基地の周辺に住民が勝手に移住してきて危険だ、危険だと騒いでいると批判する人もいます。しかし事実は逆で、米軍が民家を粉砕、破壊して、住宅地の中に基地を造ったのです。保守派はえてして、事実そのものを確認せずに批判する傾向が強い。

西田氏もその典型。事実を無視して、あるいは事実を知ろうともせずに、自分に都合のいい思い込みだけで相手を批判するのは怠惰の極み、真の批判にはなりません。真の保守ならば、事実をきちんと確認した上で、真正面から批判すべきです。わたしも基本的には保守派の部類に入ると思っていますので、保守派の評判を落とさぬように厳しく批判させていただきました。

実は、本号のテーマである日本の教育政策批判も、保守政治の根源的な失政に対する批判になりますので、西田議員の暴言に対する批判は、その本論への露払いのお役目も担っていただくことになりました。

2.新井紀子氏の反デジタルプロパガンダ

日本学術会議法人化法案は衆議院を通過し、審議の場は参議院に移りました。当初わたしは、この法案を阻止すべく、一刻も早く批判を公開すべきだと少々焦っていましたが、日本が直面する教育の空白化は、この法案を阻止したぐらいでは何の解決にもならないほどに、深い深い病根を抱えていることにあらためて思い至り、焦らずに書くことにしました。

日本の教育が抱える巨大な空白とは、これまでわたしが繰り返し指摘してきましたように、政府によるデジタル教育の放棄です。もはや、遅れというよりも放棄というレベルです。デジタルは好むと好まざるとにかかわらず、この世界の、ありとあらゆる領域を覆い尽くすほどに浸透しています。

これほどの浸透力、無限の領域との親和性はデジタル以前の技術とは根本的に異なるもので、デジタルにのみ固有の特性です。この技術の基本的原理や基本的な操作方法を学ぶことは、現世を生きる人間にとっても未来を生きる人間にとっても、必須不可欠の義務であり、権利でもあります。しかし日本では、この基本的なデジタル教育は、実あるものとしては今なお実施されぬままです。

わたしは、日本政府によるデジタル教育の放棄については繰り返し繰り返し批判してきました。多くの識者やメディアも、日本のデジタル化の遅れや技術力の遅れについては繰り返し指摘していますが、デジタル教育の遅れについて指摘した論評はほぼ皆無です。少なくとも、わたしはその種の記事は見聞きしたことはありません。

このメディアの偏向もわたしにとっては不思議でなりません。その一方、人類史を画するデジタル技術の革新性を認めず、むしろ低く貶める新井紀子氏の反デジタルキャンペーン的な活動には、メディアの多くも加わっています。メディアと連動した新井氏の反デジタルプロパガンダが、想像以上に日本社会を強く呪縛してきた結果ではのではないかと思います。

その呪縛についてはわたしはすでに、2018/07/28に公開した、大ブームとなった新井氏の『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』を論評した、AIと教育「AIの限界のみを強調するAI学者」において以下のように指摘しています。

(AIは数値化されたデータを、四則計算で処理しているだけの計算機にすぎないという)新井氏の指摘は、AIに対する人々の興味関心を一気にそぐ、身も蓋もない、いわばぶっちゃけ話の類いだとも言えば言えるるわけです。しかもこのぶっちゃけ話的効果は、われわれ素人のみならず、プロの方々にまで及びそうな厳しさを孕んでいます。

もしも企業や大学などの研究者たちに、本書に書かれているようなAIの限界を容赦なく原理として突きつけたならば、AIに関する新しい技術を開発しようと考えていたり、新しい製品の開発を考えていたとしても、彼らの中に芽生えていた創造への意欲は、一気に萎えてしまうのではないかとまで感じさせられました。原理を無視した創造は創造たりえないともいえるわけですが、不可能を可能とするところにこそ、真の創造や学術的・技術的革新が生まれるのではないでしょうか。

7年ほど前の上記のブログを書いた時点では、「もしも」新井氏の厳しいデジタル批判が大学や企業などの専門家にまで及ぶならばと、仮定形で書いていましたが、その後、新井氏のデジタル批判の受入れ先は小中などの義務教育の子どもたちだけではなく、企業でも彼女の講演研修を実施するにまで至っていることを知って、激しい驚愕に襲われました。

大学では、IT/AIの専門分野では研究は続けられてきたはずですが、大権威となった新井理論というよりも、新井流プロパガンダというべき新井氏の言説を、無効化するほどの動きは起きていないという事実が、新井氏の反デジタル活動が専門家集団にもかなりの影響を与えていることを証明しているのではないか。

実はここにこそ、日本の教育空白の淵源がありました。ただその責任は新井氏にのみあるのではなく、そういう体制を作った時の政権が全面的に負うべきものでした。そしてその動きを支えてきたメディアにも、応分の責任を求めるべきだろうと思います。

3.新井氏を批判しない日本のマスコミ

なぜ新井氏一人が、情報学(IT/AI)分野の大権威として君臨することになったのか。もちろん新井氏が自ら大権威たらんと望んだわけではなく、結果として大権威に祭り上げられたと見るべきだと思いますが、ここには、日本の衰退を招いた最大の謎を解くカギの一つが隠されています。

IT/AI分野に限らず、どんな分野でも様々な考え、理論が存在するのは当然ですし、多様な考えにもまれてこそ進歩や創造も生まれるわけですので、新井氏のようなデジタル観も一つの考えとして傾聴されるべきです。

しかし問題は、新井氏に対する異論も動きも皆無であったということ、公の場では新井批判は皆無であったということです。IT/AIの専門家の中には新井氏とは異なる考えもあるはずですが、にもかかわらず、その異なる考えは、われわれ国民の耳目に届くことはありませんでした。

その結果、大ベストセラーになった新井氏の著書に記された反デジタル(反プログラミング)プロパガンダが強い呪縛となって、素人のみならず専門家をも含む日本社会を覆うことになり、今日まで至るという状況が続いています。

2,3か月前だったか、いつも無料で貴重な記事を拝読させていただいている東洋経済オンラインで、久しぶりに新井氏関連の記事を目にしました。新井氏が最近、新著を出されたとのことでその紹介記事でした。

記事から察すると、新井氏は生成AI沸騰の現在においても、7年前の『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』とは、基本的な認識は変わっていないらしいということでした。それを知った瞬間、わたしは思わず、ええっ!と心の中で叫びました。

新著は読んでいませんが、基本的なデジタル観には変化がないないのであれば、7年前に書いた、AIと教育「AIの限界のみを強調するAI学者」に付け足すことはないだろうと思い、東洋経済の記事は保存しないままこのサイトを閉じようとしたところ、突然、Xの画面が眼前をふさぎました。

よく見ると東洋経済のXでした。サイトに表示されているXのアプリをうっかり押したのかもしれません。眼前に広がるXを見ると、日本語の読解を試す問題が次々とスライドする仕掛けになっていましたが、それらの問題は、7年前に読んだ『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』に掲載されていた問題にそっくりです。

これにはさらに衝撃を受けました。新井氏は今も、この種の問題で日本中の子どもたちの教育を「改革」しようとしているのか。信じられぬ思いでした。しかも東洋経済が、なんの疑問も抱かずに、その新井流教育「改革」を全面的に支援しているとは!唖然とするばかり。

しかし、新井流反デジタルプロパガンダを支援しているのは東洋経済だけではありません。日本の全マスコミが同じ流れにあります。日本経済の発展を牽引することが基本的使命だと思われる、日経新聞系でも傾向は同じ。日経新聞系でも新井流反デジタルプロパガンダに対する批判記事は見たことはありません。日本のマスコミの、この異常なまでの偏向には恐怖を感じるほどです。

批判をしているのはわたしのような無名の人間しかいないからかもしれませんが、当サイトで紹介した新井批判者も皆さん無名の方です。新井批判はマスコミが取り上げないので批判者は何時まで経っても無名のままという循環が続いているわけですが、権威ある専門家の中からは、新井批判は出ていないという結果の反映でもあるのだろうと思います。

4.IT/AI教育を軽視してきた安倍政権

ではなぜ、権威ある専門家の中からは、新井流反デジタルプロパガンダ批判が出てこなかったのか。一言でいえば、第2次安倍政権以降、大学への予算配分に強力な選別が導入されたことに起因しています。

小中高でのプログラミング必須化を実現したのは安倍総理、IT/AI教育を軽視どころか、重視ではないかとの批判もあるかと思いますが、それを踏まえても安倍政権時の大学予算の選別化は、IT/AI教育を軽視する政策が基本になっていたことは事実です。

小泉政権時にも選別は始まっていますし、IT/AI教育軽視も同様ですが、第2次安倍政権以降は特に選別が強化されました。もっとも手厚く予算配分を受けたのは、国立大学を中心にした医学部系、もっとも割りを食ったのがIT系。当時の新聞にもこの偏向が取り上げられていました。

日本の大学にはAI研究所はどこにもありません。もっとも潤沢に予算が配分されているはずの東大にすら、今現在もAI研究所はありません。世界中で生成AIを含むAI関連事業や研究が猛烈な勢いで進み、数々の話題を提供していますが、日本では話題になるほどの目ぼしい動きは、東ロボ関連以外ではほぼ皆無。

小泉政権から始まった大学改革で、国公立大学から日本や海外の文学や歴史を学ぶ文学部が容赦なく廃止された後、現代韓国研究所が九大をはじめいくつかの大学に創設されましたが、AI研究所は皆無です。(ついでに書く加えると、廃止された学部、学科に代わって日本の文学、言語、歴史や文化を専門に研究する研究所を創設した大学も皆無です。海外対象でも韓国以外は皆無。)

大学の予算総額はほぼ変わっていませんので、政権による厳しい選別から、IT/AI系が排除されてきた結果を如実に示しています。これが日本政府(安倍政権から現政権まで)の基本的な教育政策として続けられてきた現在の着地点です。昨日、今日始まったものではないことはあらためて言うまでもないはずです。

一方で安倍政権下では、××機構への予算配分を手厚くしました。専門の研究機関ならば、学生を指導する手間も時間も割く必要がないので、研究に没頭でき、効率よく結果を出してくれると考えたのかもしれません。しかし、人材育成を放棄した国に未来はないことは説明不要でしょう。

新井氏が所属する情報学研究所もそうした専門機関の一つですが、東ロボプロジェクトのような事業は、もし仮に大学に潤沢な予算が配分されていても、おそらく大学では実行はもとより、企画としても出てこなかったのではないか。

素人の身でおこがましい限りですが、東ロボは、学生への教育効果やAI研究としての成果としては、明確な形を想定することが困難なプロジェクトに思われたからです。

もちろん、教育や研究には速効的な成果を求めるべきではありませんが、教育にせよ研究にせよ、AIならAIを対象にするに際しては、基礎から応用へ、そして現在AIが直面している課題は何かを明らかにして、その課題解決のための方策を様々な手法で探りながら研究を進めるというのが通例ではないかと思われますが、東ロボプロジェクトは、何かイベント的な発想で始まったのではないかとの印象を受けます。

AIは従来にはなかった全く新種の分野ですので、イベント的な発想でも研究手法としては有効かもしれません。しかしプロジェクトの結果は、AIの成果としては総括された気配のないまま、日本人の読解力向上運動という、AIとは全く無関係な動きとなって日本のIT/AI教育の抑圧装置に転化されてしまっています。

こうした大学や専門機関における政府のIT/AI教育軽視策が続く中では、大権威となった新井氏を批判する専門家やグループの輩出は100%ありえぬことは説明不要でしょう。大学や研究機関において、自由闊達に批判したり議論したりする土壌がそもそもにおいて存在しない、ほぼ消滅したというのが、現在の日本の大学や研究機関の現況なのではないか。

専門的知見をほとんど持たない政治家が、予算配分権を濫用して、学問研究の現場をも牛耳ろうとした素人集団の政府が、大学への強力な予算配分権を握って、大学を陰湿に抑圧してきた結果であることは言うまでもありません。今アメリカでは、トランプ大統領が激烈な形で同じ流儀で大学への抑圧を強めていますが、安倍政権から現政権まで続く日本での先行事例から、その抑圧効果の無残さをトランプ政権は学ぶべきでしょうね。

しかし問題は、政治家だけではないということです。

5.教育の民営化

「教育の民営化」という見出しにはしましたが、日本では文字通りの意味での民営化は、これまでのところ行われていません。しかし、国公立大学から文学部が廃止されるという大改編を伴いながら、政府(小泉政権以降の歴代政権)は国公立大学を法人化するという大方針を掲げて大改革を断行しました。しかし法人化の最大の狙いは、教育と研究の専門家集団である教授会を、事実上大学運営から排除(実権を剥奪)することにありました。

教授会を排除して、外部から招いた民間人理事による理事会が大学運営の実権を握る、決定権を握るという、事実上の民営化が国公立大学に導入されました。これが法人化の実態ですが、外部の民間人とは、企業経営者を中心にした経営のプロたちです。加えて、大学によっては官僚が理事として天下る例もあり。

教授会も当初はこの新体制にかなり抵抗していましたが、予算配分権を握る政府の締め付けもあり、教授会の抵抗も抑圧され、やがて学術的知見の乏しい民間人理事会が大学の運営を一手に握るという、いびつな体制が固定化し現在に至っています。

以上は地元の九大の事例を中心に動きをまとめたものですが、全国でも似たような状況だったのではないかと思います。

私立はもともと経営を担う理事会はありましたので、国公立大学ほどの大激変はなかったとは思いますが、政府・文科省が国公立大学で強力に進めた「民=理事会」の経営力を重視するという基本方針は、私大にもかなりの影響を及ぼしたはずです。

この大学の法人化が激烈に進められていた当時、わたしは、福岡市にある純真女子短期大学(現在は改組され、純真短期大学)の国文科(助教授・・改組後、国文科は廃止)に勤めていましたが、国公立大学ほどではないにしても改革が求められていました。またお付き合いのあった、今は亡き九大文学部国文科の教授であった花田俊典氏からは、改革の渦にもまれて大改革が進む大変さも時折お聞きする機会もありました。

大改革を受けて九大をはじめとした大学の運営が実際に開始されたのは、わたしが短大を辞めた(1999年)数年後のことでした。当初は、まさか大学の運営から教授会が排除されることになろうとは想像もしていませんでしたが、法人化という名のこの大学の大改革は、大学の運営から専門家集団である教授会を排除することにあったことは、今では誰もが知る明白な事実です。

この大学の運営から教授会を排除するという無知の極みの、法人化と称する暴挙は、目下進行中の学術会議の法人化法案と狙いは同じですが、本丸である大学の法人化の方がはるかに大きく深刻な大ダメージを、日本の教育環境に与えることになってしまいました。

専門家集団の教授会よりも民間=理事会の権限が肥大化して、専門家集団が素人集団の配下に置かれるという、教育機関としては死を意味する事態まで招くに至っています。

学術的知見とはほとんど無縁に思われた中田理事長に完全に牛耳られた日大はその典型ですが、最近では、あの名門の東京女子医大でも理事長の専横を許し、信じられないような不正が行われていたことが明らかになっています。

また、こちらは国立大学ですが、旭川医大でも学長がその権限を悪用して不正を働いていたことが明らかになっています。学長(総長)(場合によっては副学長クラスをも含む)などのごく一握りの大学中枢部は、教授会から唯一選ばれた理事ですので、理事会のメンバーとして、権力を濫用して教授会を抑圧する人物も出てくるはず。旭川医大の学長はその一事例にすぎないはず。この種の大学を舞台にした不正は、大学の法人化以前には100%ありえませんでした。

その他、小さな専横事例は多々あるはずですが、大学運営から教授会を排除したことは、学術的に大きなマイナスになっているだけではなく、不正の温床にもなっていることを如実に示しています。

もちろん、法人化によって大学運営の自由度が上がったり、企業などとの共同研究の自由度も広がったという利点はあります。しかしその「自由」とは、学術的にはほぼ無知に近い民間人や官僚をメンバーとする理事会、あるいは日大の中田理事長のような、強大な権限を握った理事長によって、いびつに制限されたものが大半を占めているのではないか。共同研究先の企業の選定も、学術的な観点からではなく、理事会の我田引水的な方針が優先されてきたのではないか。

法人化初の九大総長(2001年~2008年、法人化後学長から総長に変更)は梶山千里氏が2期8年務めましたが、1期目は確か教授会(「教授会+職員」だった記憶あり)推薦候補が接戦の末、理事会推薦候補の梶山氏に敗れました。2期目は、梶山氏の続投に教授会が猛反発して紛糾しましたが、理事会が教授会を無視し、強引に権限を行使して結局梶山氏が2期目も続投することに。

この2期目の総長選以降、大学運営から教授会が事実上排除される動きが加速。その後は、同種の紛糾は発生せず、大学運営は完全に民間人(大学によっては「+官僚」)に牛耳られる体制が固定化され、今に至っています。

紛糾も対立も発生しなくなりましたので、わたしも梶山氏以降の九大総長の名前は知りませんが、梶山千里氏は統一教会の「日韓トンネル実現九州連絡協議会」の会長を務めていることを知って驚いています。梶山氏が九大総長を務めていた時期は、わたしが2001年9月に葦書房の経営を引き継いで、1億円余の大借金と格闘していた時期と重なっています。

この頃は、事実は小説より奇なりにも長いレポートを書いておりますように、葦書房の創業者でありわたしの夫であった久本三多の死の前後から異様な事態にも何度も遭遇していましたが、そうした異変の背後に、韓国人や統一教会の存在のあるらしいことには事実としては認識していましたが、彼らの影響力を過少に評価していましたので、そうした異変と韓国系の人々や組織と密接に関係しているとの認識に至ったのは、かなり後になってからです。

わたしが勤めていた短大にも、わたしが授業の盗聴を理由に短大を辞める決心をした1、2ほど年前から統一教会の陰がちらつき始め、辞める頃には短大の理事会が統一教会に乗っ取られたとの、教職員有志による告発文が自宅に届くほどになっていました。

ただ当時わたしは、統一教会にそれほどの力があるとは想像もできずにいましたので、その深刻さに気がついたのはかなり後になってからです。当時は、福岡(九州)の経済界が日韓トンネル推進に熱心だとのニュースも見聞きしながらも、日韓トンネル=統一教会とは想像もしていませんでした。

日本にとってはプラスになることは皆無のこの事業は、韓国政府からの働きかけだとばかり思っていました。しかし韓国政府はむしろ、日韓トンネルは経済的にはペイしない非合理なプロジェクトだとして反対していることを知ったのも最近のことです。

ということで、わたしが日韓トンネル=統一教会を知ったのは最近のことですが、この新事実を知って当時を振り返るならば、九大総長に梶山氏を理事会=福岡の経済界が強力かつ強引に推薦したのも、梶山氏が学術的貢献は皆無の日韓トンネルでも何でも、理事会のお望みどおりに従いますよとの姿勢を示していたことが、高く評価された結果であったことが分かります。

梶山元九大総長の事例を長々と説明したのは、大学運営から専門家集団である教授会を排除して、経済界や官僚らの民間人や非専門家の理事会に任せたら大学運営はどうなるか、その実例としてお示ししたかったからです。

ちなみに日韓トンネル事業名は今なお現役で、統一教会の資金集めに使われているという。同事業の会長を務める、九大の元総長梶山氏の名は資金集めに絶大な効果を発揮していることは言うまでもないでしょう。なお久留米大学の某経済学部教授も、日韓トンネル事業を推進なさっています。研究費名目で統一教会から教授に資金が渡っているのかもしれません。梶山氏にも当然、資金が渡っているはずですが。

小泉総理の頃から始まった、私立大学にまでその影響が及んだ国公立大学の法人化の狙いの一つが、統一教会による大学への介入機会を提供することであったとしたならば、その目的は立派に果たされたと見るべきでしょう。

6.医療系大学と統一教会

と、ここまで書いてきて、ふと気がついたことがあります。大学法人化後に発生した理事長や学長などの中枢部による不正は、いずれも医学系大学や学部、学科を擁する大学だということです。日大には伝統ある医学部があります。

法人化をバックにした安倍総理による大学選別も、医学系が優先されていましたので、国公立、私立とも医学系大学には非医学系大学よりはより大きな予算の配分がなされたはずです。知らずに入った学生には気の毒なので、余り具体的には書きませんが、私立の短大でも、医学系学部、学科を増設したり、新設したりした例は福岡県下でも複数あります。しかもいずれも統一教会の介入が確認されています。

以前は検索すると、関連記事がズラリと並んでいましたが、現在では皆無です。わたしも自己規制するわけではないのですが、在校生や卒業生の評判を落とすことには加担したくないので、具体名は書かずに続けることにいたします。

おそらく、大学の経営層に食い込んだ統一教会は、安倍総理や自民党との直通のツテで、医学系学科の増設や新設の予算を優先的に回してもらい、その実績で短・大学の実権を握って医学系人材育成に多大な影響力を行使する。そして、卒業生を病院や各種機関に送り込み、医学系事業所にネットワークを張り巡らせることに成功した、ということではないかと思います。

こうした流れと関係あるのかどうかは不明ですが、葦書房の事務所が中央区赤坂にあった十数年前の頃こと、近くあった沼田病院という、民間病院にしてはかなり大きな病院があったのですが、突如、病院が閉鎖しました。かなり古くからあった非常に大きな病院ですので、仮に病院長が不測の事態に見舞われたにしても、ご親族の中には医師などの医療関係者が1人、2人といわず、何人もいらっしゃるはずなのに、なんで突然閉鎖になったのかとずっと不審に思っていました。

それからしばらくして、何かNPOのような民間の組織が「福岡中央病院」と名前を変えて診療を開始。その後、葦書房も何度も移転を余儀なくされ、間近でその変貌を目にする機会も激減しましたが、福岡中央病院として再出発した元沼田病院は、再出発後さほど経たないうちにまたもや閉鎖。

先ほどネットで検索したところ、閉鎖された病院跡地はコインパーキングとなり、その後、跡地は石油関連会社が購入したという。
【福岡・大名】沼田病院跡が売買、変わる国体道路 23年11月13日 

ところで、この話にはおまけもついてきました。

そのおまけとは、元沼田病院を改称した福岡中央病院は、旧郵政省が運営する逓信病院を、ある医療系K大学が買収して、逓信病院から福岡中央病院に改称した名前と全く同じだであるということです。郵政民営化の流れを受けたものだったと思います。

と、これを書きながらつい先ほど気がついたばかりですが、それがなぜおまけなのかといえば、逓信病院は、三多が最初に検査のために入院した病院だったといことです。検査後、三多は久々に自宅に戻ったのですが、しばらくして病状が急変。わたしが車で逓信病院まで連れていきました。

翌日、わたしは主治医に呼ばれて三多の余命が1月との驚愕の告知を受けました。そこまで病状が進んでいたのかと、言葉も出ませんでした。逓信病院は、その恐怖の告知を受けた忘れることのできな病院でした。

この告知を受けて、三多の長兄に連絡して、長兄と一緒に主治医からあらためて病状の説明を受けましたが、余命1月の宣告は変わりませんでした。それから間もなく、臨終間近との主治医の告知を受けて、子どもたちや親族を呼び寄せ、最期のお別れをしたのも、後に福岡中央病院となるこの逓信病院でした。

ところが不思議なことに三多は、枕元に並ぶ子どもたちをはじめ親兄弟を目にすると元気になり、余命1月の宣告を軽々と越えて命を長らえました。その後、病院を変えましたが、この病院でも転院後間もなく、わたしは主治医から呼ばれて臨終間近と伝えられ、再び子どもたちや親兄弟を呼びよせました。

するとまたもや、逓信病院での臨終間近の場面と全く同じ奇跡が起こりました。三多はまたもや、臨終の闇から蘇ったのです。長男が弔辞で「不死鳥のように」と父親を形容していましたが、二度の臨終宣告から復活した三多は、今から思うとまさに不死鳥であったと思います。

しかしその後、事実は小説より奇なりにも書きましたような異常事に取りつかれて、不死鳥のようであった三多は、望みもしない、早良区の病院のベッドの上でついに命尽きました。三多は、余命1月の6倍近くを生き延びたものの、3度目の奇跡は起こりようもない異常な環境下で最期を迎えました。

というような経緯があり、逓信病院は三多やわたしたち家族にとっては忘れることのできない病院だったのですが、その後民間に売却されて、福岡中央病院という名に改称されました。ここまでの歴史ははっきりと残されているはずですが、同じ福岡中央病院と改称された元沼田病院に関する情報はほぼ皆無に近い。最初にご紹介した跡地売却のニュースのみ。

しかも「沼田病院」を検索すると、Yahooでは「福岡中央病院」として表示されるケースもありましたので、今では存在しない福岡中央病院=元沼田病院との誤解を招きかねないことに違和感を覚えています。もし仮に、検索でこの「福岡中央病院=元沼田病院」の組み合わせしか出なくなったならば、三多の最期につながる重要な場所が消されてしまうことになるからです。

ここでさらにおまけを加えますと、逓信病院を買収した医療系のK大学は、わたしが結婚後、福岡に来て最初に就職したM学園という予備校でした。当時、校舎は大名にありましたが、独特の経営方針で東京の有名講師を招き、受験生の人気予備校となりました。

わたしは出産を機にこの予備校を辞めましたが、後に校舎を長浜に移転。建物も煉瓦づくり、調度にも贅を凝らした校舎を建設。地元予備校ながら、大手予備校が進出するまでは順調に業績を伸ばしていました。

ところがその後、理事長が病気で急逝なさり、残された奥様と娘さんでは運営が難しかったのか、予備校を丸ごと売却されたらしい。

建物も備品も全てそのままで、名前だけはT学園と改称されたその専門学校はかなり経った頃、建物のはそのままで、看板だけがT学園から医療系のK大学に変わっていることを知ってびっくり仰天しました。ただし煉瓦づくりの建物は、その後解体されたらしい。さらにK大学は逓信病院まで傘下に。

これら旧M学園の変貌を直接目にしたのは、葦書房の事務所が移転を繰り返しながらも中央区内にあった頃でしたので、わたしが葦書房の代表に就任した2001年~2012年ぐらいの間のことだったと思います。事務所を南区に移してからは、中央区でも中心地の天神から離れた旧M学園界隈を車で走る機会もほとんどなかくなっていましたので。(*5/24 追記 上記赤字も同日追記)

K大学についてネットで調べてみると、福岡中央病院と改称した旧逓信病院を傘下に置いただけではなく、複数の病院を擁する、大病院群にまで発展していることに驚いています。現在、本部は関東にあるらしいので、K大学がT学園を買収したのかもしれません。しかしT学園との関係については全く言及はなく、買収なのかどうかなどは分かりませんが、TもKも漢字で書けば同じなので、てっきり共同経営なのかと思い込んでいました。*以下にご紹介していますが、K大学もT学園も同じ経営者による同じグループでした。

***以下は、匿名を実名に変えて修正しております。5/24***

と学校名は匿名で書いておりましたが、誤解を招くかもしれませんので実名で書くことにします。K大学とは、九州、関東に膨大な数の医療施設を擁する国際医療福祉大学です。九州福岡地区の沿革は、国際医療福祉大学・高邦会グループ(九州窓口)[グループ募集]に書かれていますが、出発は福岡県大川市にある高木病院だったという。高邦会グループとは、グループの代表(院長、理事長)である高木邦格氏のお名前に由来するらしい。始まりの地は、福岡県筑後地方の、大川市・柳川市。

M学園も実名は水城学園ですが、理事長死後に水城学園が高木学園と改称され、その後、建物に掲げられていた高木学園の看板名が国際医療福祉大学に変わったことについては、沿革の中には記録されていません。ただし、水城学園の最後の方に、運営が高木学園に変わったことが記されています。

逓信病院については2019年に福岡中央病院と改称して、高邦会グループの傘下に入ったことは同グループの沿革にも記されていますが、買収だったのか無償譲渡だったのかは不明です。おそらく逓信病院も負債を抱えていたと思われますので、無償譲渡の可能性もありそうですが、不明。

当時は葦書房の借金返済に追われて手一杯。古い勤め先の変遷についてまで関心を向ける余裕はなく詳細は不明ですが、淵源を辿るならば、このいずれにもわたしの縁がつながってきます。これまでは、それぞれの動きや変化はピンポイント的に記憶に残っていましたが、今これを書きながら、何という縁の深さかと心底驚いています。時に、震えがくるほどに。

なお、「医療系大学と統一教会」との見出しの下で書きましたが、国際医療福祉大学がその系列だと思っていません。わたしの縁でのつながりをたぐりよせながら書いているうちに、国際医療福祉大学の前身の予備校水城学園に勤めていたことを思い出して書き綴った結果ですので、その点はお断りしておきます。

ただ、予備校から医療系大学への大展開や逓信病院の買収には、自民党の政策的支援も大いに活用したのではないかと思います。筑後地方にある専門学校が、あるいは個人病院が、これほどの大躍進を遂げるには、政策的な支援なしには不可能だったのではないかと推測しています。国際医療福祉大学の名前が、我々一般人の目にも触れ、広く知られるようになったのも、それほど古い時代ではなかったようにも思いますので、郵政民営化策を進めた小泉政権以下の歴代政権や、医療系重視策を進めた安倍元総理の政策も、国際医療福祉大学にも恩恵をもたらしたのではないでしょうか。

ところで、医療関係技師などを養成する短・大学の中には統一教会との関係が疑われるところもいくつか存在しますが、そうした統一教会系の養成機関から各方面に送り出された人材と統一教会との関係も気になるところです。

統一教会系の養成機関を卒業したからといって、全員が統一教会と関係があるとは思えませんが、中には関係を維持している人もいるのではないか。

わたしは時々血液検査をしますが、もしも統一教会の指令を受けた人物が検査を担当した場合、その結果に手を加える可能性があるのではないかと考えたりします。あるいは、採取したわたしの血液の一部が統一教会の手に渡ることもありうるのではないかとも、考えたりします。

最近、どこだったか、血液からクローンを作り出す技術を開発したとのニュースを目にして、自分の血液の行方が心配になっています。クローンまではいかなくとも、わたしの血液が凍結保存されて、DNA鑑定などでわたしの成りすまし工作に悪用されるのではないかと、本気で心配しています。

またもや診察券が盗まれる

診察券とお薬手帳が盗まれたとご報告しましたが、どちらも出てきましたので、お詫びすとともにこの項は削除しました。詳細についてはAI敗戦と大学法人化「5.マイナポータルをめぐる疑惑」をご覧ください。

7.AI敗戦と大学の法人化

大学の法人化によって、日本の大学の運営から、教授会という専門家集団が排除された一方、その欠損を埋めるはずの民間(+官僚)による理事会は、デジタル時代という革新性を全く理解できぬまま、大学の学術レベルを低下させることにひたすら貢献してきました。

研究者や学者の専門家ならば、どれほど末端の地位にいても、世界的な研究の潮流については敏感にキャッチして、自らその対応策を編み出すはずですが、法人化後は研究費の超偏向的な配分による資金的な締め付けによって、研究の自由度がまず奪われてしまっています。

欧米では、専門家が発表する論文を見て、民間からの資金が寄付として提供されたり、政府からの補助金も出されるはずですが、法人化後の日本では、予算を獲得するために学者たちは。役所向けの申請書類を大量に作成して提出させられるという素人向けの膨大な作業が課せられています。

(*5/23  追記)公開済みの論文なら心配ありませんが、未公開の研究内容を詳細に解説した申請書などは、未公開の研究がひそかに外部にもれる。外部に流す格好の機会になっています。まさに亡国の制度。(*5/23  追記)

かなり前ですが、東大工学部を卒業後、東大の医学部に入り医者の免許を取得した青年が、医者にはならず、日本の国家建設に貢献したいと通産省(かなり昔の話ですね)に入り、後に米国に留学した時の体験談が読売新聞だったかに出ていました。

彼はアメリカでも研究を重ね、論文を発表したところ、その論文を見た役所のお役人が彼に役所に入ってくれとスカウトにきたというエピソードが紹介されていました。わたしはこの記事を読んで、アメリカでは役人も専門家の論文を読むのだと驚いて、強く記憶に残っています。

アメリカでは、それほど高度な専門知識をもった官僚が国家運営の実務を担ってきたことを意味していますが、政治家も、トランプ政権以前までは、そうした専門的知識をもった官僚たちの知見を尊重してきたようです。ここにこそ、アメリカの強さの秘密があったのではないかと思います。

またアメリカでは、民間から大学への寄付が莫大な額になることがしばしば話題になりますが、アメリカの大企業の経営者の収入は日本とは桁違いに大きい。貧富の差がそれだけ大きいということですが、その大富豪が大学などに寄付をするのはある意味当然の結果だろうと思います。

日本の経営トップの収入は、韓国企業のトップよりもはるかに少ない。その日本も最近では貧富の差が大きくなってきていますが、それでもアメリカほどには激烈なものではないhずです。アメリカでは車を家代わりに暮らしている人も珍しくはなく、地域によってはブルーシート下で暮らす人々の集団もいますね。

のみならず、そういうホームレスの人たちを遠く離れたハワイにまで強制移住させて、観光地ハワイにブルーシートが並ぶ光景がWEB新聞に出ていました。去年だったか、そのハワイで火山が大噴火しましたが、強制移住させられたホームレスの中には、火山噴火に巻き込まれて亡くなったものいたのではないか。日本ではまだここまでの貧富の格差には至っていません

また、アメリカの富裕層が手にする超巨額の収入には課せられる税額も巨額になります。それならば、優遇措置のある寄付をしようと思うのは自然の流れです。そうした社会的な違いを無視して、日本の大学も寄付で研究せよという方針を出す政府は余りにも無責任。

日本では、専門的な論文を読むほどのお役人はほとんどいないのではないか。政治家はそれ以上に無知。その無知を埋めるためか、政党や政治家は、民間、民間と民間が知恵の源泉でもあるかのような主張を繰り返し、ついに法人化によって大学の運営から専門家集団を排除、企業家などの民間人(+官僚)が運営の実権を握るに至っています。

しかし、デジタル時代における日本の経済人の無知さを認識するならば、この法人化という政治の介入がいかに大学を破壊する結果を招いたかは万言は無用のはずです。しかし政治家ご当人が無知ですので、ある意味当然のことながら、無知が無知を見ても無知だとは認識できずにいるわけです。

あの世界のトヨタですら、デジタル時代の車はIT/AI技術の塊だと認識するに至ったのは最近のことですよ。後は推して知るべし。DXも、マスコミにあおられて導入した企業がほとんどで、企業自らが率先して導入した事例はごく少数。生成AIを含むAIの重要性についても、民間ですら、マスコミや海外の動きにあおられてあたふたと導入を考えるというていたらくです。

反デジタル教育を推進する新井氏を批判した企業家は皆無、実のあるデジタル教育(プログラミング教育)を政府に提言した企業家もゼロ。経済団体からの提言もありません。

歴代政権は、こんな民間(+官僚)に大学の運営まで任せたわけです。新井氏の反デジタル運動を批判する声が大学や専門家から全く出てこないというのは、歴代政権が、大学運営から専門家集団を排除して、時代の新潮流を察知する感度すら失った民間(+官僚)に大学の運営を全面的に委ねった、政治による亡国的な失政の結果によるものでした。

つまり、デジタル無知の企業家や官僚に大学の運営権を完全に奪われた結果が、日本のIT/AI敗戦を招いたということです。そして、企業家や官僚がデジタル無知であるというのも、歴代政権がデジタル教育を放棄してきた結果によるものでした。まさに負のスパイラル。

ただ、それと分からぬものの、デジタル教育の導入は始まっているようですが、これも何時まで経っても実効性は発揮されないはず。詳しくは次号にて。

8.「国が儲けてどうすんだ!」

なお、江藤農水大臣は異常な発言で辞任しましたが、江藤氏も無知の極みにある政治家の一人です。以下の記事によれば、江藤氏は農水一筋の農水の専門家で、安倍政権時にも農水大臣を務め、石破政権では2度目の農水大臣就任にもかかわらず、備蓄米管理に関する法律も知らなかったという。

「コメは買ったことがない」だけじゃない。安倍氏ともどもコメ不足と価格高騰の原因を作った江藤農水相の思い出深い“やっちまった事案”
2025.05.22 『きっこのメルマガ』MAG2

わたしは、上記の記事の国会は聞いていませんが、何度か耳にした江藤氏の国会答弁は、活舌だけは明瞭ですが中身は何もないスカスカ答弁だとの印象を持っていましたが、実際、中身はスカスカだったわけです。

こういう中身スカスカの無知な政治家が、一見有力に見えるところに日本政治の最大の問題があるのではないか。農水族なら、最大の票田である農協の御用聞きをしてさえいたら、中身スカスカでも当選できるという、旧来型の選挙システムが生み出す政治の劣化です。

コメ問題の最大の闇は農協にありという指摘は多い。自民党は国民政党だというのであれば、この指摘は無視できないはず。
「コメ価格2倍高騰」の裏に“JAの政治力”。元日銀副総裁が明かす「減反政策の真実」と1700万トン生産の可能性
日刊SPA! 2025/5/21

小野寺政調会長が、何時まで経っても動きが鈍い政府には頼ってはおれないと判断したのか、自ら備蓄米の調査に乗り出しましたが、その際、小野寺氏が口にした「国が儲けてどうすんだ!」という一言は強烈でしたね。

「国が儲けてどうすんだ」 自民・小野寺政調会長、備蓄米を安値で売り出す対応策を検討
TBS NEWS DIG Powered by JNN / 2025年5月14日

農水省は、備蓄米を放出するに当たって、農家から買い取った価格に1万円上乗せして農協に卸したらしく、小野寺氏はその価格設定を批判したのですが、そんな上乗せ価格で売り出したとはおそらく国民は誰も知らなかったはず。

この小野寺氏の視察後、それまでのらりくりしていた農水省もやっと動き出したかに見えましたが、国が儲けるという価格設定が解除されたとのニュースは伝わっていません。小泉新農水大臣もこれを解除するとは言わず、随意契約にすると発言したのみ。小野寺氏が提起した問題に正面から応える農水大臣はいないのでしょうか。

(*5/23  追記)そういえば、石破総理と腹心の赤沢経済再生大臣は共々、地元の元側近、下根孝弘氏から闇献金疑惑について暴露されてますね。石破総理も赤沢大臣も全面否定ですが、名前を出しての証言ですし、週刊文春にはかなり詳細に闇献金の状況が語られています。背景には下根氏側と石破氏の間で、何か解きがたい感情のもつれのようなものがあったのではないかと推測されますが、石破氏の対応をみていると、石破氏は地元の支援者にも(には?)何か酷薄な感じを受けますね。

物的証拠がないというのが、石破氏にとっては強力な救いになっていますが、政治家に献金する際には必ず領収書をもらいましょう。領収書を出さない政治家には献金しない。これを鉄則にするならば、政治の浄化にもかなり効果があるはずです。(*5/23  追記)

なお、アメリカでは最近、「IQ論議」が盛んらしい。IQの高低が格差の正当化に利用される風潮が強まっているらしい。ということで、頭脳の良し悪しは危険な側面もあるようなので、わたしも頭脳の良し悪しについては焦点化するのは避けようと考えていましたが、政治家の無知は日本を亡国へと至らしめる危険性がありますので、今回はかなり焦点化して批判してきました。悪しからず。

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