広がる韓流史観

広がる韓流史観

2018-10-20

2018-10-20「葦の葉ブログ2nd」より転載

今回はタイトルを少し変えて、前号韓流「九国博」の続編を書くことにいたします。

まず、九国博の交流史展示室の非常に目につく場所に掲げられている、韓国の古墳壁画らしきものを写した大きな2枚の画像についてです。この韓国古墳の写真2枚は永続展示になっているので、行く度にイヤでも目に入るのですが、2ヶ月余り前の訪問時には、初めて展示替えがなされていました。なんとお相撲さんの絵と、何が描かれているのかは全く不明の真っ赤に塗られた絵の2枚です。

お相撲さんの絵の狙いは言うまでなく、日本の相撲の起源は韓国(朝鮮半島)にあり、という新種の捏造話を広めるために「創作」されたものであることは明白です。真っ赤な写真は、何が描かれているのか全く不明でしたので、その狙いも分かりませんでした。しかし、日本の古墳(少なくとも九州各地にある古墳)には魔除けの朱が塗られていることと、神社には現在も朱が重要な意味をもって用いられることから、日本で使われている朱色の起源も韓国にありとの、捏造歴史の材料として「創作」されたものではないかと、思い当たりました。そしてその先にあるのは、日本の神道の発祥も韓国にありという、究極の歴史捏造だろうと思われます。

余りにも露骨な韓流偏向ですが、これらの画像の撮影者は共同通信と記されています。共同通信の名前を見れば、撮影された壁画が捏造だとは誰も微塵も疑わないはずですが、共同通信は、第一次韓流ブーム(現在は第3次韓流ブームが始まっているらしい。)が始まった2000年初頭前後から、韓流スターに特化した月刊の韓流専門雑誌を発行していました。公器としての通信社としては、ありえぬ発行物です。

日本の新聞、メディアの上部組織的存在であり、それゆえに共同通信自らも表向きは看板としている、報道の公正、中立性を社是とすべき公益財団法人としての通信社としてはありえない、許されざる偏向だと思っておりました。現在は公益財団法人から一般財団法人に変わっていますが、株式を発行していない、つまりは利潤追求には拠らない、公益追求第一の財団法人であることには変わりはありません。子会社として株式会社共同通信社も持っているそうですが、両者一体化しているのは言うまでもないでしょう。

問題は、共同通信の偏向は韓流スター支援だけではないことです。しかも同社のメディアに対する影響力は、わたしが想像していた以上に非常に強大であるという。産経新聞系列の「iRONNA」の次の記事 読者が知らない共同通信の強大な影響力 で知ったばかりで、非常にショックを受けています。共同通信は、自らは新聞などの媒体を発行していない通信社ですので、不買運動もできず、偏向に対する読者の批判を直接ぶつけることもできません。その一方で共同通信社は、全メディアを支配していると言っても過言ではないほどの絶大な影響力を持っているという。この事実に衝撃を受けない日本人はいないはずです。

共同通信を牛耳れば(乗っ取れば)、日本のメディア支配、すなわち事実上の日本支配も可能となるわけですが、それがすでに進行中であることは、日々のマスコミ報道からも明らかです。そして偏向誘導者は韓国、ないしは韓国の強力シンパであることは明々白々すぎる事実です。つまり共同通信社には韓国人や在日韓国人なしはそのシンパが多数採用され、偏向報道をやすやすと実行させるほどの、強大な影響力を発揮するほどの勢力になってしまっているということです。個々の新聞社や放送局批判だけでは、偏向報道にはほとんど効果はないわけです。

以上のような共同通信の正体を踏まえて、九国博の韓国の古墳壁画写真の偏向展示を考えると、共同通信は韓国側の意図を汲み、捏造を承知の上で撮影したとの推測は単なる推測ではなく、事実だと断言しても間違いはないはずです。写真からも新しく描かれたものだとの印象が即伝わってきますが、韓国以外の第三者が直接古墳内を調査して、これらの捏造壁画の顔料(塗料)の成分などを分析して、その真偽を確かめる必要があります。

しかしなぜ九九州国立博物館であるにもかかわらず、九州の古墳や日本各地の古墳の写真を展示せずに、韓国の古墳の写真だけを展示し続けるのか。九州の古墳、日本の古墳の写真は一枚も展示されていません。過去にも古墳の写真は一枚たりとも展示されたことはありません。日本の古墳は韓国の古墳を真似たものだというのが、韓流考古学会の見解のようですが、入り口が横にある横穴式だということ以外、共通点はありません。九州各地に数多く存在する古墳は、石を使って構築された非常に堅牢な造りになっていますが、石組みの古墳は韓国には皆無です。韓国の技術を導入した日本(九州)で、なぜ韓国にはない石組みの古墳が造られたのか。古墳に描かれた装飾画も、両者には全く類似性がありません。

しかも古墳の数そのものも、日韓では比較にならないほどの違いがあります。もちろん、日本>韓国です。その差も超大きい。福岡市内にも石組みの古墳が多数残っていたそうですが、福岡城築城時に古墳の石が持ち出されて城壁などに使われたという。福岡城の規模を考えると、破壊された古墳の数はものすごい数になるはずです。今の我々の感覚からすると、信じがたい所業に思われますが、黒田官兵衛にとっては、遠い遠い祖先のお墓よりも、お城が大事だったようです。

弊社の近くに興宗寺という曹洞宗のお寺がありますが、通称穴観音と呼ばれています。境内に6世紀頃に作られた古墳があり、その古墳の石室の壁に、観音、勢至両菩薩を左右に従えた阿弥陀象が浮彫りされています。それが穴観音という通称の由来です。仏像が彫られていたからか、この古墳は築城時の破壊からは免れtたようですが、築城のために破壊した古墳の霊を慰めるために、この古墳は残されたという言い伝えもあります。

以前には、ボタンを押せば、こうした九州の古墳を撮影した動画や、韓国のみならず中国や西アジア各地、その他の世界各地の古墳などを見ることができる装置が設置されていたのですが、わたしがそのコーナーを紹介して以降は撤去されたままです。九州各地の古墳を撮影した映像(非常に鮮明!)を上映するコーナーは別にあるのですが(長らく見ていませんが、多分今も上映しているはず)、時間が決められており、つい見る機会を逸してしまいます。

ボタンを押せば、いつでも世界各地の古墳の画像を見ることができる装置を作っておきながら、すぐに撤去してしまい、韓国の古墳内を写した画像だけは、いつでもすぐに目に入るように額縁に入れて展示するというのは、余りにも異常な偏向ではないですか。アジア交流といいながら、韓国以外の古墳の写真も一度も展示されたことはありません。韓国のこの展示古墳写真は、以前、ボタン装置で見た韓国の古墳動画の画像とは随分異なっています。これも不可解。

しかし問題は古墳だけではありません。白村江の敗戦後、大野城に築かれた水城は百済人が築いたという説も、韓流考古学会並びに韓流歴史学会の見解ですが、韓国には水城や水城に相当するような施設は存在しません。この韓流史観は、日本書紀の記述に依拠したものとされています。白村江の敗戦後、唐からの攻撃に備えて、天皇が二人の百済人に命じて、大野城と基肄城を築かせたとの、日本書紀・巻27の天智天皇の記述に拠っていますが、この二つの山城築城以前に、すでに水城は築かれていることが、同じ巻に記されています。にもかかわらず、水城も百済人が築いたとの話に膨張させられています。その根拠は、百済の扶余には水城と同様の版築工法で築かれた山城跡が残されていることにあります。

しかし白村江敗戦(663年)より100年以上も前の548年(欽明天皇)に、高句麗に攻められるので助けてほしいと救援を求めてきた百済に、日本から370人を派遣して、築城を助けて、百済人を指導しています。百済跡に今に残る山城の版築城壁は、日本が築城を指導した当時のものであったと見るのが、歴史に忠実な見方だというべきではないでしょうか。

さらに当時の状況を付け加えると、継体天皇の512年には、百済に筑紫の馬40匹を下賜しています。欽明天皇の550年には、日本は百済に矢2500本を送りました。百済はその返礼として高句麗の奴隷や捕虜を日本に送っています。翌551年には、麦種1000石を百済に送っています。554年には、百済の新たな救援要請を受け、百済に兵1000人、馬100疋、船40隻を送り、日本軍も百済軍と合同で新羅と戦っています。いずれも欽明天皇(巻19)の時代です。百済はこれらの日本からの救援に対する返礼として、医・薬・易博士や楽人などを日本に派遣しています。

中国文化の直移入国である百済は、当時の中国文化摂取では、当然のことながら日本よりは先進国であったことは事実ですが、その先進性は、国としての豊かさや統治能力の高さなどを証明するものではないことも、一連の日本書紀の記述などからも明らかです。

以前に、「葦の葉通信」39号侵食される日本でも紹介しましたが、当時の百済王豊璋(ほうしょう)は、白村江の戦いが勃発する直前に、今の都は土地が痩せており収穫が望めないとして、危険だから止めなさい!という日本の役人の必至の制止を振り切って、わざわざ宿敵新羅に隣接する土地に都を移しました。案の定、すぐさま新羅の襲撃に遭い、元の旧都に逃げ戻っています。のみならず百済王は、日本軍の援軍を得て唐・新羅軍との戦闘渦中、日本軍も自軍も領民もほっ散らかして、自分だけ高句麗に逃げ込んでいます。卑怯千万。

百済人が信用できないというのは、福沢諭吉も喝破していたことは、韓流入植手法の威力で紹介した「約束は無効と覚悟せよ」福沢諭吉が見抜いた韓国の本質においても、鋭く指摘されていますが、実は日本書紀の巻22・推古天皇の条にも全く同様の百済評が語られています。

新羅が任那を襲うという情報が伝わり、天皇が重臣たちとその対応策を協議していた時のこと。ある大臣が、新羅を討伐して任那を百済の統治に任せようという提案をしたところ、別の大臣が「百済は度々豹変する国である。」「おおよそ(すべて)その言うところは信じられない」と反論。この反論への反論はなく、新羅討伐は中止になったという。その後新羅に使者を送って真意を尋ねたところ、新羅国王は、任那は小さな国ではあるが、日本の天皇直属の地であり、我々(新羅)が奪ったりするはずはありませんと明言したという。

さらには、どの天皇の時代だったか、欽明天皇の時代だったと思いますが、百済が今でいう入植手法を使って、筑紫乗っ取りを企ていたこと知った百済王に仕えていた日本人役人が、帰国して天皇にその企てを奏上しようとしたところ、百済から送られてきた刺客に殺されるという事件も日本書紀には記されています。散々、日本の支援を受けていながら、隙あらば日本乗っ取りを企てている百済の姿は、そのまま現在の韓国に重なります。百済は日本に対してだけではなく、大帝国、唐に対しても面従腹背、隙あらば足元をすくうという戦法を繰り返しています。正面からではとてもかなわない相手には、様々な手を駆使して裏をかくことには非常に長けていたわけです。

古事記や日本書紀が作られた大和朝廷成立以前には、日本(倭国)では紀元前前後の頃から直接中国と交流しており、倭国は中国文化・文明を直移入していたことは、中国正史や出土品からも明らかです。57年には、奴国王が後漢皇帝に朝貢使を送り、金印を授けられています。金印下賜とは、漢にとって、奴国が非常に重要な国であったことを証明しています。

107年には、倭国の王が、後漢の皇帝に奴隷160人を送っています。239年には、卑弥呼が魏に使者を送り、魏の皇帝からは、銅鏡100枚だけではなく、卑弥呼が献呈した朝貢品の何十倍もの価値ある品々が下賜されています。魏(中国)にとって、倭国がいかに重要な国であったかを物語っていますが、その後も倭国は、413年から473年にわたって、5王(5人の王)が中国に朝貢使を送っています。倭国の王が中国皇帝に朝貢使を送ったことが、中国正史に記載されているこの頃には、日本ではすでに稲作が盛んに行われていました。

この稲作がどこからもたらされたかといえば、中国以外にはないことは明白ですが、日本では、この明白すぎる事実は簡単には認められません。朝鮮半島からもたらされたという歴史の捏造圧力が非常に強いからです。稲作には灌漑施設、灌漑技術は不可欠、必須条件ですが、その象徴は、田に水を導水する道具――水車やそれに類する道具類ですが、稲作先進国だと日韓の韓流学者が称える朝鮮半島には、これらの肝心要の道具類は全く存在しません。朝鮮半島の稲作は全て自然任せ、お天道様任せ。一方、中国では紀元前から足こぎ水車が使われていたことを示す絵画資料を展覧会で見たことがあります。さらには竜骨という、高い場所にある田に水を送るための、文字通り竜の背骨のような階段状になった足踏み揚水機も中国で開発されています。

日本ではいずれの機器も導入されています。水車については徒然草の水車を巡る話が有名ですが、実は日本書紀には、どの天皇だったかは忘れましたが、天皇が水車を作ることを命じたことが記されています。日本では、遅くとも、徒然草を遡ること700,800年ぐらい前には、水田の灌漑に水車を使っていたことを示しています。高い所の田に水を上げるのはさらに難しいですが、日本では、遅くとも室町時代の15世紀には広く使われていたことを示す、竜骨使用中の絵入りの文字資料が残されています。

わたしがここで紹介した韓流史観を否定するような資料はことごとく受難(展示が消されたり、存在が消されたり)に遭っていますので、資料の具体名は記しませんが、WEBには、日本で竜骨が使われ始めたのは江戸時代に入ってからだとの記述以外にはありません。日本では、水車は遅くとも飛鳥、奈良時代から、竜骨は遅くとも室町時代から使われていることを証明する資料が残されていることを、専門家の皆様にはまず確認していただきたい。

読売新聞に福大の武末純一教授が、古墳や稲作は朝鮮半島からという路線で日韓共同の研究を進めていることが文化面にデカデカと出ていましたが、些末な事柄で日韓の共通を針小棒大に喧伝するのではなく、核心においての異同をまず直視すべきではないでしょうか。韓国を相手にするのではなく、日本の歴史を深く研究することこそ、日本にとってのみならず、世界の学術レベル向上に資するはずです。

すでに取り上げました水城は、当時にあっては信じがたいほど高度な土木技術が使われています。九国博には、太宰府の水城に使用された木製の導水具、木樋の一部が実物大で展示されていますが、この木樋は大木をくりぬいたものです。ある意味、細工としてはそう複雑なものではありませんが、当然のことながら、こうした木樋は朝鮮半島にはありません。そもそも朝鮮半島には、水を人工的に管理・操作する道具や施設は皆無です。九国博に展示されている木樋ですら、日韓の技術レベルの違いが埋めがたいほど大きなものであることを証明していますが、奴国の中心地であった福岡県春日市には、さらに驚くべき超高度な土木技術を示す木樋が存在します。

春日市にある大土居水城に使われていた木樋で、太宰府にある水城よりはかなり規模(川幅ではなく川の長さ)が小さいので、小水城と呼ばれてます。小水城は春日市には、天神山水城など他にもいくつかありますが、わたしが見たのは、春日市奴国の丘歴史資料館に展示されている大土居水城の木樋です。小水城と呼ばれてはいますが、使われている木樋そののものの大きさは太宰府の水城のものとほとんど変わりません。しかしその構造は、大きく違っています。長方形に切った厚い板を蓋のない箱状に組み合わせたものですが、板を止める留め具も、細い木製の角柱を使って作られており、木をくりぬいた太宰府の水城の本体よりも、かなり複雑な構造になっています。

*実は太宰府にある水城にも、丸太くりぬきの単純な木樋だけではなく、角材を留め具で組み合わせた複雑な構造の木樋が現存するのを、某日確認しておりますが、九国博はこの複雑高度な技術を駆使した木樋の存在は完全に隠蔽しています。2023/10/8

春日市にある奴国跡には、おびただしい数の遺跡や遺物のみならず、様々な機器、道具類を制作した、おびただしい数の工房跡も残されています。その高度な技術を持った集団が工夫して、水城本体とは異なった複雑な構造の水城木樋を作ったものと思われます。おそらく世界史的にみても、木製の導水装置は他に例はないのではないか。朝鮮半島には木樋のみならず、奴国跡のような大規模な遺跡はないはずです。

ついでに付け加えるならば、読売新聞に、「奈良仏教 新羅の影響強く」と題した正倉院展の紹介記事が出ていました。新羅の影響を示す決定的証拠として、正倉院に収められている複数の経巻をまとめて包むカバー「華厳経論けつ」の内側の芯に、新羅の戸籍を記した公文書が使われていることによるという。つまりは、新羅の戸籍が不要紙扱いされて、カバー下張りの紙として利用されていたということです。これが奈良仏教は新羅が作ったという最強の証拠になっているという。

しかし冷静に考えると、中国でも朝鮮でも日本でも、そして現在の世界中の政府にとっても、戸籍は徴税を核とした統治には絶対不可欠、必須の最重要資料です。仮に新羅が完全に滅ぼされた後であったとしても、新たに国を治める勝者にとっても、最重要な基礎の基礎の統治資料であることには変わりはありません。ましてや奈良の大仏殿建立当時は新羅は健在で、新羅からも大仏開眼供養には王子を送ってきています。その新羅が仮に、100%日本に服属していたとしても、自国の戸籍を下張り紙に使って作った経巻を日本に献呈するでしょうか。仮に新羅自らが、戸籍を下張りに使って作成した経巻を日本に届けたのであれば、まさに服属感100%の「献呈」と表現する以外に表現の方法はないはずです。

しかし新羅の戸籍が下張りに使われていたという事実は厳然たる事実です。実は記紀で超有名な、神功皇后による三韓征伐にその謎を解く鍵があります。古事記にはありませんが、日本書紀には、新羅が日本に服属を誓って、新羅の戸籍と地図を差し出したことが記されています。しかも新羅が戸籍と地図を日本に献上したことが2度も書かれています。戸籍と地図を差し出したということは、新羅の全てを日本に献呈したという、究極の服属度を証すものです。これを見て、百済も高句麗も戦わずして、日本への服属を表明しましたが、それも当然でしょう。

日本書紀には創作部分や史実を改竄した部分もあると言われていますが、戸籍と地図を献呈することで服属を示すということは、創作は不可能で、事実に基づかなければ書けなかった事象だろうと思います。そして実際に究極の戦利品として、新羅の戸籍と地図が日本に存在していたわけですが、朝鮮半島の直接統治から撤退した後は、少なくとも戸籍は不要となります。

同じく今では正倉院御物の一つになっている新羅関連資料の「買新羅物解」(当時の日本の貴族が新羅に発注した買い物リスト)も、鳥毛立女屏風図の下貼りに使われていた、いわば廃棄処分された書類でした。つまりどちらの新羅関連文書も、御物の修理・保管などの作業過程で、近年発見された資料です。つまり当時の日本にあっては、これらの新羅関連資料は、さほど重要ではないと判断され、紙が貴重な時代ゆえ、より重要な品々の保護や作成のために使われたというのが、歴史が語る事実ではないでしょうか。

また読売の記事には、新羅で華厳経を学んだ新羅留学生、審祥が日本の華厳経の基礎を築いたとして新羅仏教の影響を証明するものとして紹介されていますが、審祥が学んだ新羅の高僧は本家中国の高僧法蔵に華厳経を学んだことが背景にあることには全く触れていません。しかも審祥と新羅仏教が奈良仏教に重大な影響を与えたのであれあば、奈良仏教を象徴する大仏開眼供養に審祥や新羅の僧が、何らかの形で開眼供養の役職に就いたはずですが、審祥はもとより、新羅僧の名前は残されていません。審祥が在籍していた大安寺のHPにある、大安寺の名僧たちに紹介されている開眼供養に参加した僧は以下の通りです。(大安寺以外の僧については調べていません。)

菩提僊那(ぼだいせんな)
天竺(インド)僧。704年、南インドでバラモン階級の子として生まれる。天平七年(736年)遣唐使にしたがって来朝を果たし、大安寺に住した。行基と親しく交わり、天平勝宝二年(750年)には僧正に任ぜられ、その二年後の東大寺大仏殿開眼供養では勅命により大導師を務める。天平宝字四年(760年)大安寺にて57歳で入寂。
道せん(どうせん)
唐僧。菩提僊那らとともに、天平七年(736年)遣唐使にしたがって来朝を果たし大安寺に住す。天平勝宝二年(750年)には律師に任ぜられ、その二年後の東大寺大仏殿開眼供養では呪願師を務める。天平宝字四年(760年)入寂。
仏哲(ぶつてつ
林邑(ベトナム)僧。菩提僊那、道と共に、天平七年(736年)遣唐使にしたがって来朝し大安寺に住した。ベトナムの舞楽、林邑楽を伝え、大仏開眼供養の儀式を盛り上げた。これは日本の雅楽の中に伝えられている。

ベトナムの僧まで参加していたとは驚きです。しかも日本の雅楽の基礎を築いたとはさらに驚き。

文科省の研究予算は海外連携を条件にすべきではありません。文科省自体が韓流史観に汚染されているようなので救い難いですが、自由な研究を促すために、研究予算には条件を付けずに、満遍なく配分すべきです。韓流史観の汚染度のひどさは、地方都市にも及んでおり、大野城市の歴史関連施設、大野城こころのふるさと館では、水城が百済人によって築かれたことを解説するアニメーションが流されていますが、監督者も作業員も全て百済人です。日本には版築工法による建造物は水城以外にもいくつもありますが、朝鮮半島には日本が370人もの人を派遣して指導して構築した扶余以外には存在しません。

国際化を謳いながら、その実韓流史観に覆われた日本では、数々の史実が隠蔽されすぎです。韓流捏造歴史作成を目指す、国内外の韓流史観信奉者たちに国税や県税を使わずに、古代日本の中心地で会った奴国跡の春日市の資料保管にもっと税金を投入すべきです。税金が投入され始めると、まだ韓流汚染がさほど感じられない春日市にも、韓流史観汚染が拡大する怖れが出てきそう。また、ここで紹介しましたので、春日市にあるおびただしい数の遺物が盗み出される危険性もありそうです。くれぐれも注意していただきたい。

(*わたしが古代の先進技術を紹介したせいか、その後春日市奴国の丘歴史資料館にも、韓流史観の汚染が進行している気配あり。要注意!2023/10/8)

400年前に作られたという、内外の非常に貴重な考古学資料、歴史資料を収蔵していたというブラジルの国立博物館が全焼しましたが、燃える前に貴重な資料が盗み出されている可能性がありますが、完全なる全焼ゆえ、盗みの痕跡も消されています。このブラジルの国立博物館の全焼も、有史以前の日本は、南米地域とも交流があったと以前に書いたことがきっかけになったのではないかと、ずっと気になっています。

Translate »